憲法問題を考える

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プライバシー権 ―空虚な議論に待った―

新しい人権の根拠

石原「本年3月30日に公表された衆議院憲法調査会の最終報告書の中で、プライバシー権や環境権といった「新しい人権」について、憲法上明記すべきという意見と明記することを要しないとの意見が述べられました。また、7月7日の自民党の新憲法起草委員会の要網の中でも、「国民の権利と義務」の記載部分に、「注 更に議論すべき項目 (1)環境権など追加すべき新しい権利」との記載がありました。今回は、「新しい人権」の中の『プライバシー権』について、議論をしたいと思います

始めに参考として、衆議院憲法調査会の最終報告書の342頁の記載されている「「新しい人権」を憲法に明記することの要否」という部分の記述を載せます。山本君からは、現行憲法上の『プライバシー権』の取り扱いについて説明をして下さい」

“衆議院憲法調査会の最終報告書の342頁の記載”
1(ii)「新しい人権」を憲法に明記することの要否
  新しい人権を積極的に認めていくべきであるという前提の下、これを憲法に明記することの要
否について、明記すべきであるとする意見と明記することを要しないとする意見が述べられた。
ア 「新しい人権」を憲法に明記すべきであるとする意見
  新しい人権を憲法に明記すべきであるとする意見は、その根拠として次のようなものが挙げられている。
a 戦後60年近くを経て、憲法制定当時では想定されていなかった権利が認められるようになった。
b 新しい人権を憲法に書き込むことは、国民の人権の確保に有益であり、憲法が国家権力を制限し国民の権利を守る基本法であることからも、その趣旨に合う。
c 新しい人権として憲法に明記することにより、国会における立法、裁判所の判断の基準となる。
d 13条(幸福追求権等)に新しい人権の根拠を求めることができるというのであれば、人権の各論規定は不要ということになってしまいかねない。憲法が抽象性の高い規範であるとはいえ、新しい人権が13条の幸福追求権等に含まれるとの考え方には限界がある。
イ 「新しい人権」を憲法に明記することを要しないとする意見   新しい人権を憲法に明記することを要しないとする意見は、その根拠として次のようなものが挙げられる。
a 憲法に明文の規定のない新しい人権であっても、例えばプライバシー権は13条によって、知る権利は21条によって既に解釈上認められている。また、憲法の人権規定は、現在の新しい人権のみならず、将来生起し得る新しい人権にも対応できる懐が深いものである。
b 新しい人権について憲法上明文の規定がないことが、権利の実現に障害となっているのかどうかを検証しなければならない。新しい人権について明文の規定がないことが問題なのではなく、問題は、政治家や官僚のこれらの権利の実現に対する消極的な態度であり、憲法に明文の規定を設けたからといって、何ら問題の解決にはならない。
c 現在の規定を根拠に新しい人権を認めることができるのであるから、求められているのは憲法を改正することではなく、憲法の精神に沿ってそれを具体化する法制度を作っていく努力である。

山本「そうですね。『プライバシー権』という用語それ自体は、現行憲法のどこを見ても見当たりません。しかし、実際、これまでも裁判所は判決の中で『プライバシー』を憲法上の権利として認めてきました。憲法13条の幸福追求権 を主な根拠として、解釈上引き出してきたのです。ドイツやアメリカでも、『プライバシー権』が憲法典の中に明記されているわけではなく、憲法上の包括的な人権規定から解釈によって導き出しています」

石原「憲法上の権利というのは、常に憲法典の中に書かれている必要はないからね」

山本「はい。その通りです。今回議論するプライバシー権や環境権といった、いわゆる『新しい権利』は、包括的基本権、いわば権利の母体である13条の幸福追求権から解釈上引き出されると考えられています。

プライバシー権の沿革

石原「確かに、最近でも柳美里さんの小説『石に泳ぐ魚』が、モデルとなった女性の『プライバシー』を侵害したとする最高裁判決が出ている 」

山本「そうですね。あの事件では約130万円の損害賠償が認められただけでなく、小説の出版差止めも認められていますね。『公益にかかわらない女性のプライバシーを小説で公表することによって、公的立場にない女性の名誉・プライバシー・名誉感情を侵害した』、『出版されれば女性に重大で回復困難な損害を与える恐れがある』と。こういうケースでは、作家の『表現の自由』と書かれた側の『プライバシー』とが正面からぶつかるので、非常に慎重な考慮が求められますが、この事件では書かれた側のプライバシーに軍配が上がりました」

石原「去年は田中真紀子さんの長女の私生活に関する記事を載せた週刊文春が問題になった。確か地裁では長女のプライバシーに配慮し、出版を差し止める命令を出したが、メディア規制だ、表現の自由の侵害だ、という激しい反発を受け、その後の高裁では仮処分を取消されている 」

山本「プライバシー侵害は認定されましたが、出版を差止めるほど『回復困難な損害が出る恐れはない』とは考えたわけです」

石原「なるほど。」

山本「ただ、ここでは、憲法上『プライバシー』とは書いていないのにもかかわらず、裁判所がプライバシーの権利を肯定していることを確認するのが重要です。裁判所は、昭和39年、三島由紀夫の小説『宴のあと』が問題とされた事件で、小説のモデルとされた者に対するプライバシー侵害を認めています 。これらは民事上のものですが、個人と政府との関係においても、警察による学生デモ行進の写真撮影が問題になった京都府学連事件で、『みだりに容ぼう等を撮影されない自由』を認めている 。ただ、自動速度監視装置、いわゆるオービスによる写真撮影が問題となった事件でもそうなのですが 、結論的には合憲、つまり警察による写真撮影の正当性を認めています」

石原「結論はどうあれ、判例で『プライバシー権』は既に認められているわけだ」

山本「そうですね。最近では、さらに、私事を暴露されない権利という側面に加えて、自分の情報を積極的にコントロールする権利として認められるようになっています」

石原「それが最近よく耳にする『自己情報コントロール権』という概念だね。確かに、無数に張り巡らされたコンピューターネットワークの中で、自分の情報が一人歩きしてしまう危険は十分考えられる。私、石原ひろたかの情報は、一『政治家』すなわち『公人』として、ある程度、公表・公開されることは覚悟しているが、普通に暮らす方々、すなわち『私人』にとっては、自分の情報が、自分のあずかり知らぬところで公開されていたり、売買されているというのは本当に恐怖だ。いまや誰もが書き込め、情報を交換できるインターネットも普及している。そのような情報化社会にあって、自己情報をしっかりとコントロールできる権利を認めることが肝要だと思う。我が国でも、既に、行政機関が保有する情報に対する『コントロール権』を認めた『行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律』と、民間企業が保有する情報に対する『コントロール権』を認めた『個人情報の保護に関する法律』がを両方制定されている」

山本「そうですね。後者は今年の4月から全面施行されていますね。民間企業も大変です。ちなみに、ネットでのプライバシー侵害については、プロバイダーによる侵害情報の削除権や、発信者情報の開示請求などを条件付きで認める『プロバイダー責任法』 も制定されており、既に施行されています。こう見ると、『自己情報コントロール権』は、法律レベルで具体的に実現されている段階にあります。私の問題提起は、既に具体的な保障を受けているプライバシー権を、なぜ改めて憲法上明記する必要があるか、という点です。本当はここを議論しなければならない。でないと、万人に受け入れられやすい『プライバシー権』は、憲法改正のための客寄せパンダになってしまうと思うんです」

マス・メディア規制という他意?

山本「平成15年の衆議院憲法調査会資料を紐解くと、当時は『メディア規制法』とも称された個人情報保護法案の議論真っ只中ということもあってか、自己情報コントロール権をメディア、特にマス・メディアに対しても肯定できないかが議論されています 。既に判例・法律の中で認められるプライバシー権、自己情報コントロール権を、敢えて憲法上明記するという試みは、メディアに対するコントロール権を法制化する足掛かり的な意味があると深読みできないですか?」

石原「確かに、いま言われた憲法調査会小委員会の中で、自民党の倉田雅年委員(倉田先弁護士でもある)が、憲法改正ということを具体的に述べていないものの、メディアに対するアクセス権、自己情報コントロール権を認める可能性について論じている。私も、マス・メディアによる人権侵害には注意しなければならないと感じている。しかし、憲法上プライバシー権を書き込むことと、マス・メディアの問題とを同時に論じてよいものか?」

山本「情報化社会において実質的な権力を持つのは情報を大量に持つ者、例えばマス・メディアですから、彼らは権力の監視役であると同時に、自らも社会的な権力者といえます。。ですから、マス・メディアと国民一人一人との間に、国家と個人のような垂直的な権力関係と類似の関係が生じていることは事実上否定できません。従って、権力から個人の自由を保護するという憲法上の要請として、マス・メディアから個人を救済する必要性はあるかもしれませんよね。しかし、これを憲法典のレベルでやるというのは、かなり難しい試みであると思います。憲法は、あくまで国家の権力行使から国民を守るものであって、マス・メディアもまた憲法による保護の対象ですからね」

石原「なるほど。マス・メディアも憲法21条で表現の自由を有しているからね。ただ、表現の自由を特に重視する英米法系の国は別として、ヨーロッパの多くの国では、法律レベルでメディアに対する権利を保障していると聞く。メディアへの反論権、訂正権を認めるフランスやルーマニアが有名だ。ドイツも、95年のEUの個人情報保護指令を受けて、メディアに対する限定的な規制を認める個人情報保護法がある」

山本「確かに、アメリカやイギリスは、裁判による保護という方式が一般的ですが、大陸系の国では、法律による保護というやり方がとられている場合がありますね」

石原「憲法にメディアに対する自己情報コントロール権を明記するのは山本さんもおっしゃるように難しいとしても、法律レベルでの保障を喚起するという意味で、包括的なプライバシー権を憲法上組み込むという議論はあるかもしれない」

山本「今の憲法改正論議の背景に、そのような意図はあるのでしょうか? 実は、衆議院憲法調査会最終報告書案でも、プライバシー権の明記と共に、メディアに対するアクセス権明記を支持する意見が述べられています」

石原「確認のために言うが、私はメディアに対するコントロール権を憲法に組み込めとは主張していない。以前紹介した読売新聞が2004年11月17日にリークした自民党憲法調査会会長の保岡衆議院議員の憲法改正案あくまでも保岡氏の叩き台)では、「第三章 基本的な権利・自由及び責務」「第二節 基本的な権利・自由」「2.いわゆる「新しい人権」の追加」「①名誉権、プライバシー権及び肖像権▽名誉、個人及び家庭のプライバシー、個人の肖像権を保障する。情報の利用は制限できる」と記載しているが、私の解釈では、これは国家、行政機関に対する自己情報コントロール権を認めているに止まるものだと考えている。ただ、私としては、それを憲法に規定することによって、効果という点で、メディアを含めた民間企業が、個人情報の保護に一層配慮することを期待できると考える。敢えて踏み込んで言えば、メディアによる人権侵害という問題に、政治家石原ひろたかとして対処する必要性を感じるし。特に、全くの私人であって、何も悪いことをしていない人、例えば犯罪の被害者の方などのプライバシーがメディアに露出されることについては、果たしてそのままでよいのかと思う。メディアによる自主規制に期待するのか、法律による規制が必要なのか、その場合に報道の自由・表現の自由を過度に制約することにならないかなど、議論すべき点は多いし、すぐに結論が出る問題ではないけれども、政治家として、少なくともそういう議論をすることは大事だと思う。もちろん、メディアの側からも議論に加わってもらうべきだろう。こうした議論をすることにより、国家とメディアという権力者間で、ある意味で権力の抑制と均衡が働くことが重要だと私は考える」

山本「そういう議論は、権力分立の現代的変容ということで説かれることがあります私は、正直なところ、石原さんがおっしゃるような有機的連関が生まれるかどうか懐疑的なところもありますが、石原さんの今後の活動に期待したいと思います」

安全への期待とプライバシー危機 ― プライバシー論議の現代的必要性

山本「それともう一つ、プライバシー権の導入を単なる『客寄せパンダ』にしないための実質的な議論が必要だと思います。それは、『9.11』以降のアメリカと、治安の強化が望まれる日本とで共通している問題といえるのですが、市民の『安全』保障と『プライバシー』との関係です。先日、アメリカへ出張していたのですが、入国の際に『US-VISITプログラム』による熱い歓迎を受けました(笑)。日本人がアメリカへ入国する際には、どんなに短期の旅行でも、いまや顔写真と指紋をとられるわけですね」

石原「なるほど。確かに、『安全』を重視することは、監視社会化、つまりプライバシーに一定の制約を課すことを要請する。日本でも、かつては通信傍受法の問題、最近では監視カメラの設置などが社会問題化していますね」

山本「はい。監視カメラの問題については、既に1994年に有名な釜ケ崎監視カメラ撤去訴訟があり、大阪地裁は15台中14台のカメラ設置を認めています」

石原「今後も、こういう治安強化の流れは続くかもしれない。先日のロンドン同時爆破テロの発生を踏まえても、テロや凶悪犯の増加とともに、国民も安全を守ってほしいと願うわけで、同意が得られそうだ」

山本「ブッシュ大統領も再選されていますしね。治安強化を掲げる石原都知事も支持されている。ただ、私は、ちょっと危険な傾向かな、とも思います。ミシェル・フーコーの指摘したパプティコンのような状況、つまり、常に見られているかもしれない、という監視の状況は、我々から主体性を奪うような気がします 」

石原「しかし、善人は見られても構わないはずだ。見られていて困るのは犯罪者だろう。だとすれば、多くの市民の安全を守るために彼らのプライバシーを制約するのは妥当なはずだ」

山本「ただ、善人といっても息つく瞬間が欲しいでしょう。仮面を脱ぐ瞬間というか…」

石原「もちろん。ただ、家の中に監視カメラを設置するわけではない」

山本「監視カメラに限ればそうですね。ただ、情報、とりわけ個人の統合的な記録を保有されることによる間接的な監視はどうでしょうか。自分に関するどのような情報が保有されているのか、そして、誰によって保有されているのかわからない状況、これは一定の萎縮効果を与えますよね。どこにいても、事前に『行為可能性』を摘み取られる可能性はある。この点、警察庁が、犯罪捜査のためのDNAデータベースの創設を検討していることが注目されます」

石原「奈良県の女子誘拐殺人事件をみてもわかるように、性犯罪者などは再犯率が高い。彼らから予めDNAを採取しておけば、犯罪の抑止効果にもなるし、犯罪捜査を迅速にする。非常に有益な手段なのではないか」

山本「適切なDNAデータベースが、社会にとって有益なものとなる、この点には私も同意します。実際、アメリカでは、FBIのDNAデータベースをはじめ、全50州がDNAデータベースを導入し、実績を出しています。ただ、この問題は非常に重要です。DNAは『個人情報の宝庫』ともいわれ、身体特性や精神特性、さらにある程度性格までわかると言われているわけですから、それを国家が保有するということにはとことん慎重にならなければならない。映画『ガタカ』や『マイノリティ・レポート』のような遺伝子管理社会にならないためにも、誰からDNAサンプルを集めるのか、性犯罪者などに限るのかどうなのか、獲得したDNAサンプルからどういった遺伝情報を集められるのかをしっかり議論しなければなりません」

石原「確かにその問題ある。誕生時に全国民からDNAサンプルをとるということになれば、それはやはりSF的世界だ。私もそこまでやるべきだとは当然考えていない。あくまで安全を確保するために必要な範囲でプライバシーが制約されてもやむをえない、と言っているに過ぎない」

山本「いずれにしても、現状の強化の要請と、プライバシー強化の要請との二兎追い同時並行的な議論には若干の戸惑いを感じています。『安全』と『自由』とが対立する側面があうることを自覚する必要があると思うのです。大屋雄裕氏は、監視の論理が『他者を危険から守りたいという純粋な善意』に基づく『配慮の論理』から出ているとしながらも、我々は『主体の論理と配慮の論理のいずれかを取る』かという選択を突きつけられていると指摘しています(思想第965号、岩波書店)。物凄く単純化して言ってしまえば、危険でも自らが主体的に生きられる社会をとるか、主体性を喪失しても安全に生きられる社会をとるか」

石原「僕はその両者が二項対立的な問題とは思わないが、プライバシーをめぐる憲法改正論議の中で、そのような対立がありうることが置き去りにされていたこと、つまりある種の楽観論に陥っていたことには注意すべきだと思う。市民の安全を守ることが急務の現代社会において、市民のプライバシーをどう位置付けるか、そのような問題意識の中で、憲法改正論議をどのように進めていくかが重要だろう」

終わりに

石原「今回は、非常に踏み込んだ議論ができたと思う。山本さんが指摘するように、判例や法律で既に認められているプライバシー権の明記は、確かにこれまで憲法改正の『呼び水的』な『軽い』役割しか与えられていなかった論議に警鐘を鳴らすことができたと思う。こうしてしっかり議論してみると、『安全』か『自由』か、という国家の重要な舵取りとも関連した問題を含んでいる。山本さんは、遺伝子プライバシーのスペシャリストと聞いているので、また色々とお話を伺いたい」

注)山本龍彦先生の現在の肩書きは「桐蔭横浜大学法学部専任講師」となりました。