9条改正論(2)
“集団的自衛権”の明記について
山本「まず、石原さんにお聞きしますが、なぜ9条を改正し、集団的自衛権を明記すべきとお考えなのですか?」
石原「集団的自衛権を憲法に明記するかどうかは、さておいて、現行憲法の様に集団的自衛権を認めない憲法が、正しいかといえば、平和主義の理想は理想として、国際テロリズムに各国が協力して対峙しなければならない、この時代に、日本の手足を縛ることになっていると僕は考える。別添エクセルファイルに示した通り、先進国といわれる国々の大半が集団的自衛権を憲法上認め、一方、為政者が民意を反映しない無謀な戦争を起こさない様に、議会の承認を必要とする形で制限をかけているのが一般的ではないだろうか。」
「軍隊保持、集団的自衛権等憲法上の考え方各国比較」(エクセルファイル)
山本「ただ、集団的自衛権の行使規定を憲法上持っているのは、スゥエーデンなど、ごく少数ですよね。ただし、スゥエーデンも『集団的自衛権』という言葉を使っているわけではない。『集団的自衛権』、すなわち『the right of collective self-defense』という言葉は、確かに国連憲章第51条に掲げられていますが(*1) 、各国の憲法のレベルで『集団的自衛権』という言葉を明記しているケースはほとんど見当たりません。そこははっきりしておかないと。憲法典それ自体が『集団的自衛権』を明確に裏付けている国は、実はわずかですよね。石原さんが『先進国といわれる国々の大半が集団的自衛権を憲法上認め…』というのは、『(それらの国では)憲法上その行使を禁止されてはいない』という意味ですよね。僕は集団的自衛権をめぐる問題は憲法マターではないような気もしているのですが、どうなんでしょう。ところで、仮に集団的自衛権の行使を憲法上明示するとして、どのような書き方がいいのでしょうか。例えば、読売新聞2004年改正試案は、『集団的自衛権』という用語を避けて、以下のように規定しています。
読売新聞2004年改正試案第13条(理念) 日本国は、地球上から、軍事的紛争、国際テロリズム、自然災害、環境破壊、特定地域での経済的欠乏及び地域的な無秩序によって生じる人類の災禍が除去されることを希求する。 |
同試案第14条(国際活動への参加) 前条の理念に基づき、日本国は、確立された国際的機構の活動、その他の国際の平和と安全の維持及び回復並びに人道的支援のための国際的な共同活動に、積極的に協力する。必要な場合には、公務員を派遣し、軍隊の一部を国会の承認を得て協力させることができる。 |
山本「石原さんのお考えになる『集団的自衛権』とはどのような定義になりますか? あるいは、自民党では、現在どのような案が出ているのですか?」
石原「2月28日の日経朝刊に、自民改憲試案として自衛隊の存在を明示し、集団的自衛権行使を容認する。一方、集団的自衛権の憲法上の条文には記載しない旨の報道がされました。詳しい試案の内容は、4月下旬に公表が予定されている試案を見ないと分かりませんが、新聞報道によれば、集団的自衛権の行使を認める表現を明記しない理由は、「国連憲章でも認められており、わざわざ触れる必要はない」との判断であり、代わりに「安全保障基本法」(仮称)を制定して、そこに明示する案や、政府の憲法解釈として表明する案が浮上しているからとのことです。集団的自衛権を憲法上、明記するかしないかの議論は、後で行うこととして、先月のおさらいになりますが、読売新聞が2004年11月17日にリークした自民党憲法調査会会長の保岡衆議院議員の憲法改正案(飽くまでも保岡氏の叩き台)では、以下の様に規定し、平和主義を謳いながら、防衛、治安緊急事態、災害緊急事態その他公共の秩序の維持、また、国際貢献のための活動における集団的自衛権を認め、”集団的自衛権”という言葉をハッキリ明記する内容となっています。」
第四章 平和主義及び国際協調 第一節2項 『戦争の放棄と武力行使の謙抑性⇒日本国民は、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としてはこれを放棄する⇒自衛または国際貢献のための武力行使であっても、行使は究極かつ最終の手段であり、必要最小限の範囲でおこなわなければならいにこと深く自覚しなければならない⇒武力の行使を伴う活動を行う場合、事前(緊急時は事後)の国会承認を要し、手続き及び基準・制限は、二項の趣旨に基づき法律で定める』 |
第八章 国家緊急事態及び自衛軍 第二節 自衛軍 1項 『自衛軍の設置と武力行使の謙抑性⇒国家の独立及び国民の安全を守るため、首相の最高指揮監督権の下に、個別的または集団自衛権を行使するための必要最小限の戦力を保持する組織として、自衛軍を設置する⇒自衛軍による武力行使は、究極かつ最終の手段で、必要かつ最小限の範囲でおこなわなければならないことを深く自覚しなければならない』第二節 自衛軍 2項 『自衛軍の任務⇒自衛軍は我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、防衛緊急事態に対し我が国を防衛することを目的とする⇒自衛軍は治安緊急事態、災害緊急事態その他の公共の秩序の維持にあたること及び、国際貢献のための活動(武力行使を伴う活動を含む)も任務とする』 |
派兵に対する民主的コントロール
山本「なるほど。日経新聞に掲載された自民改憲案は、集団的自衛権の行使は容認するものの、条文としては明記しないという考え方。それに対し、保岡私案は、”集団的自衛権”という言葉を明記しつつ、その行使には国会の承認を求め、国会の民主的コントールを重視しようとするものですね。ただ、ここで一つ指摘おかなければならないのは、アメリカ合衆国憲法でも、戦争を宣言する権限は、軍の最高司令官である大統領ではなく、連邦議会にあるとされながら、実際に議会の宣言がなされた『戦争』はごくわずかである、という点です。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争までも(*2) 、厳密には議会による正式の宣戦布告なく行われたものです。アメリカでは、150回以上も軍隊が海外に派遣されていますが、そのうち議会が宣戦布告したのはたった5回だといわれています(*3)。注意すべきは、アメリカでは、憲法上、戦争に議会の宣言が必要とされているのに、大統領権限が拡張的に解釈され、実際には民主的コントロールが難しくなっている、という事実です(*4) 。緊急時に議会の承認を取り付けている暇などない、というのがその理屈でしょう。いわゆる個別的自衛権に関しては、その政治的行使を危惧する心配はあまりありませんが、対岸の火事への『自衛軍』参加(すなわち集団的自衛権の行使)については、政治的思惑が働くこともありうる。それにもかかわらず、アメリカの場合のように、議会による民主的コントロールが実際に効かないということになると、ちょっとおそろしい気がしますよね。首相とその取巻きによる恣意的、あるいは政治的な『集団的自衛権』の行使をどう防ぐか。重要な課題ですよね。いずれにせよ、集団的自衛権の明記は、どれだけ民主的コントロールを掲げても、前回述べた『枠』の『軸』がぐっとずれる、ということを意味するように思えます。そのずれた『軸』を中心とした新たな解釈の危険を孕んでいる…」
石原「ただ、あなたの論理からすれば、『枠』がある以上は、一定の歯止めはかかるわけだよ。ならばそれほど危惧する必要もないのでは」
山本「確かに、どこかで歯止めはかかるかもしれません。ただ、侵略戦争を認めるものでなくても、その歯止めがかかる位置は大きくシフトしますよね。結局、『集団的自衛権』という概念も『解釈』されるものですから(*5) 。マイケル・ムーアではありませんが、石油のためのアメリカの戦争に参加することも、そこで言う『集団的自衛権』の行使に含まれるのか否か…」
石原「イラクへの自衛隊派遣を石油のためのアメリカの戦争への参加と山本君が言うなら、それは左翼系新聞のくだらない論評と同じことだと一刀両断するしかない」
山本「いや、そんなことは言っていませんよ。例えば、の話です。あくまで『集団的自衛権』という概念は非常に広いもので、それ自体『解釈』の対象になってしまう、ということを指摘したいだけです」
石原「自衛隊派遣はあくまで、フセイン政権打倒後のイラクの復興支援が目的であり、イラク戦争に日本が参加した訳ではない。また、大量破壊兵器が無かったことを批判する手合いもいるが、国連決議を経た後に、同盟国のアメリカがイラクに大量破壊兵器ありと判断し、戦争に踏み切った時点で、独自の諜報機関を持たない我が国が、日米同盟、北朝鮮の核の脅威等を考慮し、アメリカを支持したことを全面否定出来るかといえば、僕は出来ないと思う。」
山本「なるほど」
石原「ところで、山本君が言うように、『集団的自衛権』という概念も『解釈』されるもので、集団的自衛権という言葉を憲法上明記したところで、その答えをこと細かに与えるものではないと思う。しかし、現行憲法が集団的自衛権を解釈上認めていないことを考えると、憲法の考え方を大きく舵を切り変更するという観点から、僕は集団的自衛権を明記することが、国民への強いメッセージになると思うので、僕としては保岡案を支持しても良い気がする。」
山本「どういうメッセージなのでしょうか? 憲法は特定の政治的メッセージを伝達する道具ではないはずですが…。いずれにせよ、『集団的自衛権』が拡張的に解釈される可能性を真剣に受け止める必要があると思います。そうなると、(1)”集団的自衛権”を規定しつつ、その拡大解釈を制度論的に抑えていくアプローチと、(2)現行9条の『軸』を堅持しながら、そこから形成される広範な『枠』の中で果たしてどのような集団的安全保障が可能なのかを熟議・討議していくアプローチの二通りの道筋がありうるような気がします。おそらく石原さんのお考えは(1)で、僕自身は(2)に近いのだと思います。(2)のように、”個別的自衛権”という『軸』にしがみつきながら集団的安全保障を討議していけば、その『派遣』が本当に必要か、という、より激しい本質的議論が期待できるのではないか、と(*6) 。逆に、”集団的自衛権”が憲法上裏書きされれば、そのような本質論なく派兵されてしまう可能性がありますよね。ちなみに、日経がリークした自民党の試案は(1)と(2)の間ぐらいの考え方なのでしょうか」
9条は改正すべきか?――改正のメリット・デメリット
石原「なにやら、結局、山本君の論理は伝統的な護憲派の立場に帰着したようだ」
山本「決してそうではないと思います。(2)の考えは、現行の9条を維持したままで、『集団的自衛権的なもの』を認める余地を残しているわけですから、いわゆる空想的理想主義ではありません。僕の考えは、あくまでも”集団的自衛権”を憲法に書き込むメリット・デメリットは何かを考慮し、そのうえで、集団的自衛権を敢えて憲法上書き込むメリットは乏しいと判断しているわけです。もちろん、集団的自衛権を正面から規定せず、これまでのような中途半端な、玉虫色の『国際貢献』をしていれば、国際社会における『日本』の地位は向上しないでしょうね。逆に明記すれば国益という点でメリットはあるかもしれない。ただ、僕は『軸』をずらすことで予想されるデメリットの方がメリットを上回ると推測しています。つまり、従来通り”個別的自衛権”を解釈の対象とするのか、”集団的自衛権”を解釈の対象とするのか、という問題ですね。もちろん”個別的自衛権”も解釈対象なので、解釈によってはその意味内容が変化し、『集団的自衛権的なもの』、つまりイラク派遣のような『グレーゾーン』を容認してしまう可能性も確かにあります。ただ、再三言っているように、”集団的自衛権”を解釈の対象・軸とするよりはまだましであろう、というのが僕の見解です。しかも、”集団的自衛権”を具体的に書き込むことは、憲法の正統性(legitimacy)にも否定的な影響を与えると予想されます。『平和とは何か?』というきわめて原理的・抽象的な問題について、人の価値観はおよそ一致しない。その中で、一歩踏み込んだ具体的規定を盛り込むことは、それをよしとしない人々の憲法的忠誠を歪める可能性があるからです。これもデメリットの一つですよね」
石原「しかし、9条を改正するということは、まったく別のメリットもあると思う。歴史的にみて、9条はマッカーサーによる日本人解体政策の象徴であり、敗戦の残滓だ。従って、それを我々の手で改正し、他の先進国と同様にするということは、日本人が日本はアメリカの属国ではなく、あくまで独立国であるということを認識する良い契機になると思う。日本人の依存症を解消し、独立自尊の精神を取り戻す重要な発露になるように感じる」
山本「石原流ですね…。僕は少し懐疑的です。まず第一に、昨年のアーミテージ発言など、アメリカは安保理の常任理事国入りの条件として、9条改正を迫ってきた経緯がある。そうなると、9条を変えるということは、逆にアメリカへの従属を印象付けてしまうかもしれません。これまで敗戦によるトラウマの払拭という点から改憲を主張してきた論者からすれば、やや逆説的なようにも思えます」
石原「山本君のその意見は、まったく理解出来ない。護憲を党是とする社民党の意見の様に聞こえる。常識的に考えて、集団的自衛権を認めない国が安保理の常任理事国に入れるはずがない。常任理事国に入りたいのは日本政府の意向であり、アメリカが望んでいるからではないし、9条を改正し、常任理事国入りすることがアメリカの従属を意味するというのは笑止千万な考え方だ」
山本「なるほど…。ただ、再三言っている通り、集団的自衛権を憲法上容認することと、集団的自衛権を憲法上明記することとは違います。現在の常任理事国の中に、集団的自衛権を『明記』している国はいくつあるのでしょうか。ない、ということであれば、明記しなくても理事国にはなれますよね。第二に、先程も少し触れましたが、『日本人として覚醒せよ』というメッセージを送るために、憲法は使われるべきではない、あるいは変えられるべきではない、ということです。憲法は権力を抑制する道具であるはずなのに、権力者が自らの政治的主張を伝える道具になるとは、これまた逆説的です。この点、改憲派の論客として知られる慶應義塾大学の小林節教授による以下の指摘があります。『〔改憲派として〕本来ならば、改憲がもはや時流になった今の状況を嬉しく感じなければならないのだが、じつは少しも嬉しくない。これは、いま勢いづいている改憲論が心なしか乱暴に感じられるからである。…本来は主権者・国民が権力を抑制する道具であるはずの憲法を使って国民に『道を説く』ことを主張する国会議員(つまり現実の権力者たち)が自民党にも民主党にもいるが、このことに、一部の護憲派を除いて、世論もじつに鈍感というか従順である』(*7) 」
石原「確かに、憲法は権力を抑制する道具、国家が国民に約束する契約であるから、憲法を使って国民に『道を説く』という考え方は間違えだと思う。しかし、今まで、多くの日本人が現行憲法を絶対的なものと感じ、内容について議論する機会を持てなかったのだから、国会議員の態度が『道を説く』様になってしまうのも仕方ないことに様に思える。大事なことは、現行の憲法が時代に即しているのか、他の国と比べてどうなのか、日本独自の考え方をどの様に憲法に反映すべきなのか、国民一人一人がしっかりと考えることだ。」
まとめ
石原「山本君と2回にわたり、改憲の中でも最も注目されている9条について多いに議論して来ました。特に今回は、テーマがテーマだけに、添付資料として諸外国の条文を調べ簡単に纏め列挙しました。
さて、9条改正については、我が国の平和憲法として侵略戦争を放棄した現行規定は維持する。そして、戦力か否かが議論となる自衛隊については、自衛を目的とした自衛隊として、その存在は明示し、集団的自衛権行使を容認する。一方で”集団的自衛権”という言葉は憲法上の条文には記載しない。この9条改正の考え方は、数年のうちに憲法改正を実現するためには、公明党、民主党に配慮すれば落とし処と考えられます。他国の憲法をみても、集団的自衛権と解釈出来る表現を憲法上明記している国は少ないことを考えれば、現実路線といえます。
しかし、敢えてこうした中で、私、石原ひろたかが”集団的自衛権”という言葉を明記した保岡私案を支持する理由は、先進国各国の憲法を眺めても集団的自衛権を容認することは常識的であり、一方で為政者に民意を反映しない無謀な戦争を起こさせない、継続させない方法を考えることが、より我が国にとって大変重要なことである。その為にも”集団的自衛権”という言葉を憲法上明記することにより、無謀な戦争を回避する方法として、議会の承認に止まらず、例えば、議会の事後承認の場合は、”議会が承認可能な一定期間のうちに事後承認を行う”といった処まで憲法に記載するかどうかを議論する方が大切と考えているからです。
戦後60年、国際社会と共に日本も歴史の大きな流れによりその変貌は明らかです。
アジアの平和的リーダーとして、21世紀の国際政治における日本の役割をしっかり考え、今回述べた9条に関する基本的な私の考え方を、皆様と共に更に勉強し深めて参りたいと思います。私のHPにおける”憲法改正を考える”のコーナーで、今後も山本君と共にいろいろな角度から次世代のための国家基盤作りとしての憲法問題を取り上げて参ります」
*1 国連憲章第51条は以下のように規定する。「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。(以下略)」。
*2 湾岸戦争については、侵攻後の1991年1月12日に、連邦議会によって「イラクに対する武力行使の授権」に関する決議が採択されている。もっとも、この決議も、ベトナム戦争時の「トンキン湾決議」と同様、「白紙委任」的であるとする批判もある。詳しくは右崎正博「アメリカにおける緊急事態(有事)法制」法律時報増刊『憲法と有事法制』(2002年)171頁。咲き博士いにん
*3 古くは1812年の対英戦争、比較的最近では1941年の第二次世界大戦。5回には含めていないが、アフガン攻撃にも議会決議は存在している。イラク戦争はブッシュ大統領が議会に同意を求めるかたちで開戦。
*4 このような事態に対し、連邦議会も1973年に戦争権限法を成立させており、議会の承認が得られない場合の撤退などを定めている。
*5 「集団的自衛権」については、大きく三つの異なる解釈がある。(1)単に個別的自衛権の共同行使とみる見解(この見解によれば、自国への直接的侵害が行使の要件となる)、(2)他国を防衛する権限とみる見解(他国を救うという観点。当然、自国への直接侵害は行使要件とならない)、(3)「自国と極めて密接な関係にある国が攻撃された場合には、自国の安全と独立という法益の侵害にも当たる」とみる見解(ラウターパハト)。折衷的な(3)説が有力であるが、(2)に寄せて解釈される余地も存することに注意が必要である。詳しくは「〔座談会〕憲法9条の過去・現在・未来」ジュリスト1260号(2004年)23頁(浅田正彦発言)。
*6 私見によれば、その激しい市民的-憲法的討議によってのみ、イラク派遣等は正当化されうる。もっとも、正統性の問題については、より詳細な検討が必要である。
*7 小林節「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか?」月刊現代(2005年2月号)85頁。